近年、社会保障の分野で話題になっている制度に「ベーシックインカム」がある。ベーシックインカムとは、「最低限所得保障」の一種で生活できる最低限の金額を定期的に支給するというものだ。この制度は年金、雇用保険、生活保護などの代わりに、国民全員に一律の金額を支給することで社会保障制度を簡素化し、行政コストを大幅に削減できるという特徴を持っている。
日本でも2010年6月から2011年9月まで当時の民主党政権が「子ども手当」として15歳までの子供に月額1万3000円を支給していたが、これは子育て世代を対象にしたベーシックインカムの一つと見なすことができる。ベーシックインカムの問題点で一般的に言われるのは、政府が国民に対して無条件にお金をバラ撒いたら、勤労意欲がなくなって働かない人が増加するのではないかという批判である。
社会実験としてベーシックインカムの導入が成功した代表的な国にフィンランドがある。フィンランドでは2017年1月から2018年12月まで無作為抽出した2000人の失業者に対し、他の収入源があるかどうかや積極的に仕事を探しているかどうかに関わらず、毎月560ユーロ(約7万1000円)を支払うベーシックインカムの試験運用を行った。
その結果、幸福度について「健康状態が良い」と回答した割合はベーシックインカムを受給していないグループが46%なのに対し、受給したグループが55%、「かなり強いストレスを感じたことがある」と回答した割合はベーシックインカムを受給していないグループが25%なのに対し、受給したグループが17%とベーシックインカムが幸福度や健康状態に良い影響を与えることが示された。
また、ベーシックインカムの受給者の雇用状況に関して、受給していないグループの勤務日数は平均で年間49.25日なのに対し、受給したグループは平均49.64日と特に大きな差は見られなかった。ベーシックインカムを導入すると人々の勤労意欲がなくなるという懸念について、今回の結果では良くも悪くも人がすぐには変わらないことが示されている。
その一方で、スイスでは2016年6月5日に成人には2500スイスフラン(約27万円)、未成年には625スイスフラン(約6万8000円)を毎月支給するベーシックインカムの是非を問う国民投票が実施されたが、賛成は23.1%だったのに対し、反対は76.9%と圧倒的多数で否決されている。
イギリスの経済学者でベーシックインカムを推進しているガイ・スタンディング氏はスイスの国民投票が否決された理由について「ベーシックインカムが導入されると、低所得国からの移民の大量流入を招く」という不安を反対派が煽ったからだと指摘している。
だが、それ以上にスイスとフィンランドの税制や経済状況に違いが大きいことも原因の一つになっているように思う。スイスの付加価値税は8.0%(2016年当時)と欧州の中でも低いのに対し、フィンランドの付加価値税は24%と高負担高福祉の国の一つになっており、完全失業率もスイスの3.3%よりも、フィンランドの8.8%(いずれも2016年の数値)のほうが圧倒的に高い。
つまり、仮にスイスでベーシックインカムが導入されたら、フィンランド並みに付加価値税を引き上げて景気を悪化させ、完全失業率の高い不安定な社会を受容しなければならないという危機感から国民投票に反対する人が多かったのではないだろうか。
更に、2019年1月からはチューリッヒ州のライナウ村で25歳以上の人に毎月2500スイスフラン(約27万円)を支給するベーシックインカムが試験的に導入される予定だったが、目標としていた600万スイスフラン(約6億4000万円)以上の資金調達が間に合わず計画を断念している。
ベーシックインカムの導入を呼び掛けた映画監督のレベッカ・パニアン氏は「なぜライナウの村民だけにお金を出すのか理解できない人が多かった」とコメントを発表し、プロジェクトの目的をしっかりと周知する必要があったと反省している。スイスでは2018年1月に付加価値税を8.0%から7.7%に引き下げており、どうやらベーシックインカムを導入するよりも減税したほうが景気対策や雇用創出に繋がると考えている国民が多いようだ。
図18では1981~2019年のフィンランド、スイス、日本における完全失業率の推移を示したが、これを見る限り日本はスイスと同様に比較的失業率が低く、消費税増税を財源にベーシックインカムを導入するよりも政府が財政出動して最低賃金を大幅に引き上げたほうが国民所得の向上に繋がるとも言えるだろう。
ベーシックインカムと引き換えに経済成長を犠牲にするな
しかし、日本ではベーシックインカムの導入が消費税増税の新たな口実にされようとしているのが残念である。例えば、2016年4月10日放送の『そこまで言って委員会NP』では、堀江貴文氏が「消費税を20%くらいに引き上げることを前提として、国民に毎月8万円を支給するベーシックインカムを導入したらどうか」と提案し、司会の辛坊治郎氏は「いっそのこと消費税を30%にして、毎月10万円支給すべき」と極論を述べている。
だが、前述のガイ・スタンディング氏はベーシックインカムの財源について「所得税の最高税率を引き上げるべき」と言っていて、海外では消費税ではなく富裕層の資産に課税してベーシックインカムの財源にする意見が一般的となりつつあるのだ。
また、堀江貴文氏はベーシックインカムを貧困対策ではなく、消費税増税の新たな口実だとしか思っていないことは過去の発言からよくわかる。2019年10月には、女性が多く集まる電子掲示板の『ガールズちゃんねる』で手取り14万円のアラフォー会社員が「何も贅沢できない日本終わってますよね?」と嘆く書き込みに対して、堀江氏はツイッターで「日本が終わってんじゃなくてお前が終わってんだよ」と自己責任論を強要した。
国税庁の民間給与実態統計調査によれば、2018年の平均年収は女性が293.1万円と男性(545.0万円)の53.8%程度に過ぎず、アラフォー会社員が女性なら男女の賃金格差を象徴する書き込みだとも言える。そうした背景を理解せず自己責任論を押し付ける堀江氏は実業家としてあまりにも視野が狭すぎるのではないだろうか。
ベーシックインカムの導入を消費税増税の新たな口実にしているのは堀江貴文氏だけではない。不登校やひきこもりの人々を支援している古山明男氏は著書『ベーシック・インカムのある暮らし』の中で消費税を13%まで引き上げて、月額8万円のベーシックインカムを導入することを提案している。
古山氏は消費税について「景気の変動に対して税収が安定している」と述べているが、それは逆に言えば不況でも失業者や赤字企業から容赦なく取り立てる欠点を持っていて、税金の基本原則である景気の自動安定装置(ビルトイン・スタビライザー)が機能しない特徴もあるのではないだろうか。
更に、古山氏は「現在、所得格差が大きくなっていくことを嘆きながら、その原因である大企業や金持ちを優遇しなければならないという奇妙な構図ができている」とも言うが、それは消費税ではなく法人税や所得税の最高税率を引き上げることで対応できるだろう。
また、経済評論家の波頭亮氏は著書『AIとBIはいかに人間を変えるのか』の中で、古山氏と同様に月額8万円のベーシックインカムを導入する代わりに、消費税を15%まで引き上げることを提案している。
波頭氏は「消費税増税による物価上昇と個人消費の低下については、過去に増税した際の実績を見ればさほど懸念する必要はないだろう」と述べているが、国民経済計算を見ると「家計最終消費支出(持ち家の帰属家賃を除く)」の落ち込みはリーマンショックが発生した2008年度の6.3兆円より消費税を8%に増税した2014年度の8.0兆円のほうが大きい(図19を参照)。リーマンショックよりも深刻な個人消費の落ち込みが発生したにも関わらず、「世の中で懸念されているほど消費の低下は招かない」と言い切ってしまう波頭氏は浅はかではないだろうか。
2018年度の実質GDP総額は533.7兆円だが、もし安倍政権が消費税増税を中止して税率が5%のままだったらとっくに家計最終消費支出(持ち家の帰属家賃を除く)が250兆円を超えて実質GDPは550兆円以上にも達していただろう。
堀江貴文氏、古山明男氏、波頭亮氏にしても消費税増税を財源にベーシックインカムを推進している論客に共通するのは「ベーシックインカムを導入するんだから、消費税を増税して生活が苦しくなるくらい我慢しろ」という思い上がった態度ではないだろうか。
もし、日本でベーシックインカムを導入するのであれば、消費税ではなく法人税と所得税の最高税率を引き上げてデフレ期の国債発行を認めることで財源を捻出すべきである。少なくとも、ベーシックインカムを引き換えに経済成長を犠牲にしてはならないし、消費税増税の新たな口実にしてもいけないと思う。
<参考資料>
橘木俊詔 『貧困大国ニッポンの課題』(人文書院、2015年)
ガイ・スタンディング 『ベーシックインカムへの道』(プレジデント社、2018年)
https://ideasforgood.jp/2019/03/06/finland-basic-income-result/
スイスの人口・就業者・失業率の推移
https://ecodb.net/country/CH/imf_persons.html
フィンランドの人口・就業者・失業率の推移
https://ecodb.net/country/FI/imf_persons.html
日本の人口・就業者・失業率の推移
https://ecodb.net/country/JP/imf_persons.html
ベーシックインカム試験導入、断念へ
https://swissjoho.com/archives/39836
VATの標準税率を7.7%に引き下げ(スイス)
https://www.jetro.go.jp/biznews/2018/01/648855c7091a2197.html
https://www.youtube.com/watch?v=LvzQqv1XGCM
堀江貴文が“手取り14万円”に「お前が終わってんだよ」でまた無知を晒す
https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_litera_9974/
平成30年分民間給与実態統計調査結果について
https://www.nta.go.jp/information/release/kokuzeicho/2019/minkan/index.htm