消費税増税に反対するブログ

消費税の財源のほとんどが法人税減税に消えている!消費税を廃止し、物品税制度に戻そう!(コメントは、異論や反論も大歓迎です)

消費税の歴史(中曽根~竹下内閣)

中曽根内閣の「嘘つき売上税」

 大平の次に、消費税を導入しようとしたのは中曽根内閣である。中曽根は1986年7月の衆参同日選挙で、「国民や自民党員が反対する大型間接税はやらない。この顔が嘘をつく顔に見えますか?」と強気な発言をしていた。

 

 ところが、同年12月に政府税制調査会自民党税制調査会は、新たな大型間接税である「売上税」を提案し、これを受けて中曽根内閣は1987年2月に「売上税法案」を国会に提出した。

 当然、嘘をついたことによる国民の反発は強く、同年2~3月にかけて都内各地で「売上税反対集会」が開催され、1987年の統一地方選挙では自民党が敗北した。

 

 その後、中曽根内閣は4月23日に原健三郎議長の調停案を受けて、売上税の通過を断念したが、この調停案には「税制改革問題は、今後の高齢化社会に対応する等、将来の我が国の財政需要を展望するとき、現在における最重要課題の一つであることはいうまでもない」と再び大型間接税導入の火種になる文章が残されていた。

 

 そして、1987年11月に発足した竹下内閣は、税制の抜本改革を掲げ、1940年から続いた物品税を廃止すると共に、消費税の導入法案を1988年7月の臨時国会で提出した。大平の「一般消費税」と中曽根の「売上税」が税率5%だったのに対し、竹下の「消費税」は税率3%で提案された。

 

 竹下は消費税導入と同時に、法人税所得税相続税など総額2兆円を上回る程度の減税を実施する考えを示した。こうした消費税を上げる代わりに、大企業や富裕層向けの減税を進め、国民の不満を解消するやり方は現在の安倍内閣まで続くことになる。

 

 しかし、1988年当時、政界では「リクルート事件」が大きな問題となっていた。これは、1985年から86年にかけて、人材情報サービス企業「リクルート」の江副浩正会長が竹下首相、中曽根元首相、宮沢喜一蔵相、安倍晋太郎幹事長、渡辺美智雄政調会長など、自民党の有力候補らに関連会社の未公開株を譲渡させたことが発覚した事件である。

 

 

消費税導入から2ヵ月で辞任した竹下内閣

 消費税法案は、1988年12月24日に参院本会議で社会・共産両党欠席のまま、自民の賛成多数で成立した。

 だが、「売上税」の時と同様に国民の反発が強く、都内では消費税導入反対を訴えるダンプカーが走り、地方の商店街でも「弱い者いじめの竹下消費税断固反対!」という看板が掲げられた。89年3月には、生活用品や保存食品などの買い溜めが起こり、バブル絶頂期であっても景気に関係なく「駆け込み消費」が発生することがうかがえる。

 

 また、労働組合の反対だけでなく、保守的な政治学者として有名な小室直樹氏も『消費税の呪い』(光文社、1989年)の中で、「絶好調宣言を何回出しても足りないほどの日本経済は、奈落の底に転落するだろう」と痛烈に批判している。

 実際に小室氏の予想通り、日本経済はその後バブルが崩壊し、長期停滞の時代に入るのだが、当時は誰もそんなこと思っていなかっただろう。

 

 竹下は、消費税がスタートする前日の89年3月31日に「やがて、消費税を導入して良かったと感じていただける日が来ることを信じております」と談話を発表し、翌4月1日には日本橋三越百貨店で、ネクタイ(1万5000円)と塩鮭2パック(計2000円)を購入し、それぞれ450円と60円の消費税を支払うパフォーマンスを披露した。

 

 しかし、税率3%の消費税が施行された後も、新税に対する不信感は薄まらず、導入から2ヵ月ほどして行われた毎日新聞世論調査では、約9割の国民が「消費税に不満がある」と回答している。

 

 この影響で竹下内閣は支持率が急落し、89年6月には消費税導入とリクルート事件の責任を取って辞任した。続く宇野内閣も女性スキャンダルが発覚し、同年の参院選自民党が大幅に議席を失ったため、わずか69日の短命政権に終わった。

 

 

<参考資料>

 北野弘久・湖東京至 『消費税革命 ゼロパーセントへの提言』(こうち書房、1994年)

 斎藤貴男 『ちゃんとわかる消費税』(河出書房新社、2014年)

 平野貞夫 『消費税国会の攻防 一九八七―八八 平野貞夫 衆議院事務局日記』(千倉書房、2012年)

 

 特集:消費税の歴史 - 時事通信フォト

 https://www.jijiphoto.jp/ext/news/sp/010/

消費税の歴史(~1970年代まで)

消費税の世界史

 消費税引き上げを批判する前に、日本で消費税が導入されるまでの経緯について詳しく述べたい。消費税は、もともと「大型間接税」や「付加価値税」と言われ、歴史を遡ると約2000年前のローマ帝国で、初代皇帝のアウグストゥスが全ての商人に対し、売上の1%の税金を課す「一〇〇分の一税」を導入したのが始まりだとされている。

 

 ローマ帝国の崩壊と共に、長らく大型間接税は姿を消していたが、20世紀に入りドイツ帝国が1916年に戦費調達を図って、税率0.1%の「売上税」を導入した。第一次世界大戦に敗れた後は、賠償金の支払いに充てるとして、1924年には2.5%へと大幅に引き上げられた。

 

 その後、ドイツ経済の安定化により、1926年にはいったん0.75%に引き下げられたが、ナチスが政権を取り、第二次世界大戦が始まると再び2.75%まで引き上げられ、敗戦後の西ドイツでは1946年に3.75%、51年には4%になった。税率は高くなくても、複利計算で累増していくため、実際の税負担率は2桁を超え、場合によっては20%になることもあった。

 

 また、フランスでも第二次世界大戦の復興に莫大な予算が必要となったため、1948年に売上税を導入し、1954年にはフランス財務省官僚のモーリス・ローレが、物品及びサービスの消費に対して課税し、各段階で生じる付加価値を課税標準として国庫に納付する「付加価値税」を考案した。これが日本でいう「消費税」に当たる。

 

 フランスでは、消費税が「基幹税(中核的な税)」に位置付けられているが、歴史的に見れば、消費税と戦費調達は密接な関係にあると言えるだろう。

 

明治から終戦までの税制

 近代以降の日本の税金を振り返ってみると、明治時代には「営業税」が創設されている。営業税は、江戸時代の「運上(うんじょう)」「冥加(みょうが)」など商工業者に課税されていた諸雑税が、地租改正の過程で大幅に整理され、1878年地方税として始まった。

 その後、1896年に日清戦争後の財政需要を賄うため、営業税は地方税から国税に格上げされる。

 

 この点では、日本もドイツやフランスと同様に税金が戦費調達の目的になっていたと言えるだろう。しかし、納税義務を課された事業者の抵抗が強く、大正末期の1926年に営業税は廃止され、新たに営業純益課税標準とする営業収益税へ変わった。

 

 昭和に入ると、地方財政の困窮や都市・農村間における税の不均衡が問題となり、1940年には法人税所得税から独立すると共に、所得税の分類が整理されるなど国税地方税を通した税制改革が行われ、営業収益税は廃止された。その際、国税地方税を統合した新たな営業税が創設され、地方の独立財源を確保する「地方分与税」の還付金になった。

 

 そして、戦後の1947年に営業税は再び国税から地方税へ移り、1948年には地方税法が全面改正され、営業税は「事業税」となるのである。

 

シャウプ勧告から「一般消費税」構想まで

 1949年、アメリカの経済学者であるカール・シャウプ氏が税制使節団長として来日した。シャウプ氏は、GHQを通して「負担の公平」を目指し、所得税中心の租税体系を主張した「シャウプ勧告」をまとめている。

 

 GHQは、戦前の日本で歪んだ軍国主義が台頭したのは、格差社会の不満を軍部が吸収していたからと考えたため、貧富の差の解消に努めたとされている。戦後の税制はこの「シャウプ勧告」の影響が大きいが、その後日本は「欧米に追いつけ、追い越せ」の精神で、東洋の奇跡と呼ばれるほど急速な経済成長を遂げた。

 この時期は、池田内閣の「所得倍増計画」(1960年)など、成長を優先させる経済政策が多かったのも特徴である。

 

 しかし、1970年代に入って高度成長が落ち着くと、今度は時の首相が財政再建を唱えるようになる。

 『日本列島改造論』(日刊工業新聞社、1972年)を発表した田中内閣は当初、日本全国に新幹線や高速道路を建設して、都市と農村、表日本と裏日本の格差をなくすことを宣言していたが、1973年に狂乱物価やオイルショックが発生すると、列島改造の拡大路線から総需要抑制の緊縮路線へと変更を余儀なくされる。

 1974年は戦後初めてとなるマイナス成長を経験し、1975年には10年ぶりの財政特例法案で2兆2900億円の赤字国債が発行された。

 

 その一方で、1977年5月に行われたロンドン・サミットでは、世界経済がオイルショックの不況から回復するために、成長余力のある日本と西ドイツが景気のけん引役とされ、再び国債増発による公共事業の拡大を図った。

 これに合わせて、政府の税制調査会は同年10月の答申で「広く一般的に、消費支出に負担を求める新税の導入」を促し、1978年の答申でも「一般消費税」を提案した。

 

 そして、日本で初めて「一般消費税」の導入を公約に掲げたのが、1978年12月に発足した大平内閣である。大平は自身がクリスチャンだったこともあり、「十字架を背負って、財政再建に取り組む」と決意した。

 ところが、「一般消費税」構想は与党内からも反対論が噴出し、1979年10月の解散総選挙自民党議席を減らす。また、衆院選の直前には、日本鉄道建設公団のカラ出張問題など政府機関の大規模な不正が明らかになり、大平内閣は「一般消費税」の導入を断念せざるを得なくなった。

 

 こうして選挙で挫折するなか、大平は「昭和59年(1984年)度に赤字国債から脱却する」と目標を掲げ、財政再建増税に頼らず行政改革で行うべきだとする「財政再建に関する決議」を1979年末の国会で採択した。

 1980年5月には、社会党提出の内閣不信任案が与党内の反主流派によって可決され、わずか8ヵ月で再び衆議院を解散したが、選挙期間中に心筋梗塞で入院していた大平が急死するという不測の事態が起こった。

 キリスト教徒だった大平は「一般消費税で倒れた十字架首相」と呼ばれている。

 

 

<参考資料>

 小此木潔 『消費税をどうするか 再分配と負担の視点から』(岩波書店、2009年)

 熊谷亮丸 『消費税が日本を救う』(日本経済新聞出版社、2012年)

 国税庁税務大学校税務情報センター租税史料室 『営業税関係史料集』(税務大学校税務情報センター租税史料室、2013年)

 斎藤貴男 『消費税のカラクリ』(講談社、2010年)

 塩田潮 『内閣総理大臣の日本経済』(日本経済新聞出版社、2015年)

 森永卓郎大貧民 2015年日本経済大破局』(アーク出版、2012年)

 

 1.運上・冥加の時代|平成17年度特別展示|税務大学校|国税庁

 4.営業税、地方財源となる|租税史料特別展示|税務大学校|国税庁

 

はじめに

 消費税は、私たちが生活している中で最も身近な税金だ。しかし、消費税はあまりにも身近すぎて、どのような税金なのか却って分かりにくくなっている部分もある。

 

 私は1991年生まれで、消費税の存在しなかった時代を知らず、物心つく前(1997年)には既に消費税が5%になっていた。そのため、消費税が再び引き上げられるという話を聞いた時は、驚きの気持ちでいっぱいだった。

 

 最初は正直、「一度くらい消費税を上げても良いではないか」と思っていたのだが、前回、消費税を増税した1997年には、山一證券が経営破綻するなど歴史的恐慌が起こったことを知り、やはり増税するのは良くないのではないかと思うようになった。

 

 実際に、堺屋太一 著『「平成三十年」への警告』(朝日新聞社、2002年)の中で、『日本経済は、95~96年と好調だった。阪神淡路大震災の復興需要に加え、携帯電話やプリクラなどの新商品が登場したため、経済成長率は高まり、株価も日経平均が2万3000円台を回復するまでになった。(中略)ところが、「改革の火の玉になる」と自称した橋本総理は方向を誤った。財務官僚の主導によって「財政再建」という緊縮引き締め財政に走り、消費税の引き上げや医療費の増徴を行った。これでは金融という心臓に重病を持ち、体内に過剰設備の腫瘍を抱えたまま、マラソン特訓をやるようなものだ。案の定、消費税の引き上げが行われた97年4月から日本経済は急激に下降をはじめた。』と書かれていて、私の「増税したら景気が悪くなる」という思いは確信へと変わった(ちなみに、現在の堺屋氏は、消費税増税に反対していないようである)。

 

 安倍政権は、2014年4月から消費税を8%に増税し、同年11月18日には、2017年4月から消費税を10%へ引き上げることを決定した。また、OECD経済協力開発機構)は日本に対して、消費税を20%まで引き上げることを要求していて、増税は10%で終わりじゃないことが明らかだ。更に、日本は諸外国と違い、今まで一度も「消費税引き下げ」の議論が起こったことがない。

 

 私は消費税増税に反対の立場だが、その一方で「何故、増税はダメなのか」という理由をまとめたことがない。今回、本ブログを始めるに当たって、改めて消費税増税に反対する理由を考えることが必要だと感じた。

 

 来年の2016年までに消費税についての著書を出版したいと思っていて、その際は本ブログの内容の一部を著書に記載する予定である。